前回、「ドライブ・マイ・カー」の作品について軽く感想を述べたのですが、今日はもう少し掘り下げてみます。
あくまでも、私の考えなのでそういう考えもあるのかな程度に読んでいただければ幸いです。
村上春樹さんの作品は、好き嫌いが結構別れると思います。
私は好きな方ですが、嫌いという人の気持ちもわかる気がします。
登場人物がすぐセックスするとか、作品自体よくわからないとか、そんな感想も聞きます。
村上春樹さんは、セックスをコミュニケーションのひとつと捉えていると私は思っています。
そして、濱口監督も村上さんがそう捉えていると考えて今回の作品になったと思われます。
主人公の妻と浮気をしていたダメダメな俳優が出てきますが、共演者とセックスをするということを暗喩するシーンがあります。
この俳優は、相手をもっと知りたいと思ったときにセックスをすると言っていました。
一方、主人公と女性運転手の間には、セックスを介さないでお互いを理解しあうことができました。
これを対比することで、コミュニケーションという主題のひとつをわかりやすく提示しているのかなと思いました。
「ドライブ・マイ・カー」の原作が収められている、「女のいない男たち」という短編集には、「ドライブ・マイ・カー」が一番先に収録されていて、一番最後に書き下ろしで表題名と同じ名前の「女のいない男たち」が収録されています。
「ドライブ・マイ・カー」は、愛する妻を失った男性の物語ですが、「女のいない男たち」は、愛する妻を失った男性を第三者的な立場から思いやるお話です。
愛する女性を失った男性は、その喪失感から、女のいない男たちになってしまう。そうならないと良いのだが。みたいな話です。
「ドライブ・マイ・カー」が収められていて、それに関連してこれを書き下ろして収録したものと思います。
私は、「女のいない男たち」を読み返してみて海老蔵さんのことを考えました。
海老蔵さんは、愛する妻を失って、それでも周りに女性がたくさんいると報じられているようです。
最初は、女のいない男たちとは全然逆なんだなと思ったのですが、もしかしたら海老蔵さんは愛する妻を失って、その喪失感がすごすぎて実は女のいない男たちと同じような状況になっているのかもしれないと思いました。
私は、特に海老蔵さんが好きなわけでも、擁護するわけでもないのですが、そう考えると理解できる部分もあるのかもしれないなと思いました。
村上さんの作品は、その作品を通じていろいろなことを考えることができるというのが、良いのだと思います。
たとえ、それが作者が言いたいことではなかったにせよ、作品を通じていろいろな解釈をして、いろいろ考えるというのが村上作品の醍醐味なのだと思っています。